錠剤機の歴史
株式会社 菊水製作所
1910年創業者島田留吉によって設立。現在は四代目社長、島田理史による経営が成されている。創業時の思いはお客様からの要望を技術の中に取り入れ、その要望にお応えすることにより技術開発が成されて来た。その面影が今も残るのが機械開発の順にNo1~7は竪型錠剤機、No8は回転式錠剤機、No12は押出式造粒機、No16は糖衣機、No17は艶出機、No34は篩過機など100年を越えて今に伝える。日本古来の製薬の製造の歴史も古く江戸時代中期(1639年)に加賀前田家より漢方薬の製造、販売が盛んになった歴史がある。西洋の参考文献等では1800年後半に機械を用いた錠剤が登場し上、下杵、臼を用いた手動式錠剤機が幾つか存在する。
日本へは1915年頃に菊水製作所に残る資料の中に手回竪型錠剤機の輸入機と思われる資料がある。この装置で目につくのは上下の移動は溝カムを利用している。日本にリードカムの加工機械がまだない時代のもので当時の欧米にはすでに加工技術が存在した。この輸入販売の代理店が小泉商店で菊水製作所のルーツを辿るとその中に出てくる。
1925年頃に菊水製作所の No1型手動式竪型錠剤機を製作し販売を始める。国産1号機である。この装置にはエキセントリックシャフトを使用したメカニズムで旋盤加工技術が普及し始めて数年が経過した時代で高度な加工技術者がいた。この頃に手動式粉砕機、混合機、連合機も手掛けている。
当時電動機(モータ)を工場で作動するには1台の大型モータからベルト掛けで電動軸を回し単体の装置を回転させるベルト掛けで単体装置を回す動力源を使用していた。単体装置にモータの価格が高いため庫の使用法が主であった。1926年頃以降No2,型竪型錠剤機を販売からこのシリーズでは手回しと電動式の2種類から御客様が選択出来るようにして販売を行なった。1926年頃に手動式回転錠剤機のモデルが小泉商会のカタログに掲載。杵立数が不明であるが回転盤回転方向が時計方向、背後に下杵圧力緩衝装置があり右側のフライホイールを兼ねた手回しハンドルがある。製造元の表示はなく輸入機に台座のみ販売会社名を浮の名を刻む。回転盤の回転方向は時計方向でありと反時計方向(現在の主流)ではない。時計の回転方向の錠剤機にマネスティー社(当時は英国製)の積層錠剤機が国内で使用していたが同じ会社内の製造設備で安全性が問われ1970年頃までに廃棄された。この錠剤機のモデルこそ今日の回転式錠剤機の原型ではないかと思われる。国産の錠剤機は1928年に大日本製薬株式会社がアサ―コルトン社(米国)から錠剤機を購入された。この錠剤機を菊水製作所の初代社長、島田留吉がスケッチし、国産モデル機の足掛かりとした。1930年国産錠剤機No8型が苦労の末完成した。国産1号機の写真はなく2号機の写真が残されている。
1932年に日本薬局方、第五薬局方の改正により日本に初めて固形製剤に関する記述が登場する。その中に錠剤機メーカとして「菊水」の名が登場する。他に記載されたメーカは3社あるがその中で「三共」の名だけは現在も存在するがその他のメーカ名は戦後消えた。1933年にNo8A-1,-2としてカタログ販売された錠剤機である。No8A-1は手回し、No8A―2は電動機付き仕様の金型の立数12本立であった。その後不幸な戦時に突入し戦前、戦中には錠剤機の一部を利用して他の産業を手助けしたとの記録はあるがその装置の写真等は存在しない。
1953年優秀な技術者の少ない中での戦後復興は国内、アジア各国から竪型錠剤機を初め製薬機械を利用したサッカリン錠等の製造機械として復興の一助を果たす。1960~1963年頃に日本の戦後復興には時間が掛り工業製品をはじめとして医薬品が活気づく役割を果たした。中でも錠剤機が果たした役割は国民の健康増進のためビタミン剤としてアリナミン、シナ―ル、ノイビタ等各社のビタミン剤の大量生産用として高速回転式錠剤機が必要となった。それまで戦前戦後を支えてきた No8F-3W(B)型錠剤機にとってかわりRTM-S36型機が主流となった。高速生産と呼ばれる生産能力は1時間あたり約50000錠は当時としての高速生産であった。また大衆薬の拡大に繋がる時代であった。1960年頃海外の話題としT.Higuchi教授が打錠障害等の現象を解明するなど海外でのセミナーの講演でも打錠の障害議論も賑やかに交わされていた。
1965年国内の製剤技術者に前川秀幸氏、坂元照男氏(塩野義製薬)、船越嘉郎氏(武田薬品工業)等から圧縮に関する論文が話題になり学会等で関係者による議論が活発に行なわれその成果を錠剤機に盛り込むことになった。前者は二段圧縮、傾斜型ロール錠剤機、後者は加圧放出錠剤機として販売した。それ以降1967年には忘れてはならない圧縮に関する出来ごとで弊社の古和田儀一郎氏と島田泰男(二代目社長)が考案した自動圧力制御装置(AWC装置)の国内特許を取得し世界で初めてとなる自動圧力制御装置付き錠剤機が誕生した。RTM-S36-2S-AWC型、当時のAWC装置はアナログ式であったがその後数年掛りで社内の技術力を結集し、1978年にデジタル化した装置になり実用面で医薬品生産の錠剤機の無人化運転を実現させた。この装置が後に錠剤生産の全錠検査(PAT技術)が可能となり錠剤機の品質の信頼性をより高いレベルに引き上げた。1973年頃から海外進出のため国内販売用の錠剤機に使用する金型形状を世界標準にしてHUタイプとして国内販売で少し認知され始めた。しかし国内販売では 金型の世界標準に抵抗はあったがぼちぼちではあるが認知の機運は高まり国内生産の錠剤機には世界標準金型として認知度を高めていった。 1974年10月J.GMPの実施に伴い医薬品の製造装置に関して錠剤機の打錠室と機械駆動室を区分けしてコンタミーを防止にするために錠剤機のモデルチェンジを行なった。この時から販売する錠剤機の頭にクリーンプレスと呼称を変更してJ.GMP対応機種として認知に努めた。
その後1978年頃に錠剤機の駆動原理の横軸回転を立軸回転に伝えるギァー機構が悪く回転盤に微妙な振動が発生し製品に悪影響が出かねないので立軸を直接駆動する方式に島田啓司(三代目社長)考案の機構を取り入れて完成させた。その機構名をダイレクトドライブシャフト方式とし、其の後は全ての錠剤機に利用している。CLEANPRESS correct45型(中型量産機)を発売した。時間当たり約8万錠の生産能力を備えた菊水の錠剤機としてメイン販売、その他に研究開発用、時間当たり約約3万錠の生産能力の少量生産錠剤機としてCLEANPRESS correct24型(小型機)を販売している。
1983年に北米に進出するため海外ブランド名として錠剤機の呼称を星座から引用して機械形式名とした。後に国内販売機についても錠剤機を星座名に統一して販売を行なった。中型量産機をLIBRA(天秤座),小型研究開発錠剤機をVIRGO(乙女座)、大量生産錠剤機をGEMINI(双子座)として呼称とした。この星座を利用した呼称の発案は島田啓司(三代目社長)であった。
1985年夜間無人運転システムを発案し錠剤機からの粉末投入から排出後、粉取り装置、金属検知機械、錠剤重量測定装置のデータを錠剤機にフィードバックするシステムを構築し販売を始めた。このシステムの保証はAWC装置(PCD-1型)の信頼性が増し医薬品産業分野以外の電子機能部品製造工場や化学工場、金属治金工場等他の産業分野での実績が大きな役割を果たした実績から医薬品分野での無人運転が可能になった。医薬品工場の無人運転工場がモデルとなり新しい工場建設には必ずエンジニア会社の関わり特徴を生かした新工場が誕生した。
1998年国内より早く海外の製薬工場では作業者保護の目的で医薬品による汚染防止のため完全密閉式で作業終了後の粉末による暴露防止のため水洗式の錠剤機を要望があり海外向けにコンテイメント錠剤機を販売している。錠剤機の呼称をAQUARIUS-C(水瓶座)として発売した。
海外販売してから数年後に国内からの引き合いに作業者の医薬品による被曝が出てきた。1995~1999年頃に掛けて浴溶剤メーカの打錠障害を防止するために開発した滑沢剤噴霧装置を思考錯誤をしている時に医薬品工場からも外部滑沢剤噴霧装置の要望があり国内の医薬品メーカにから本装置を使用して医薬品の認証を受けた事例が出た。 販売後徐々に台数を伸ばし数年後に100台を越えて現在も数を伸ばしている。販売台数を伸ばした要因に国内でのOD錠剤の開発と近年ジェネリック医薬品会社の生産をお手伝いしていることも付け加えておく。
2006年AQUARIUS G-Jとして高速回転式錠剤機を開発した。回転盤を脱着する方式を採用して品種切り、回転盤の清掃時間の短縮など錠剤機が抱える作業効率を高めた。
この錠剤機の登場により生産量が飛躍的に増し錠剤機の周辺機器にも作業効率を高める対策がなされ、より高品質な生産を確保することが可能になった。
2012年AQUARIUS G–Bとして錠剤機の回転数仕様が150r.p.m,杵立数60本立として 超高速生産錠剤機が登場した。この高速生産機械は機械メーカだけで成しとげるものではなく医薬品メーカ、賦形剤メーカの技術を結集して出来上がったものです。本機の生産量は時間当たり約35~40万錠の錠剤機である。ここ数年政府の国民健康保険財政面からの声掛けでジェネリック医薬品の勢いは止まる事なく品質面でも開発面でも先発メーカを凌ぐ力を見せている。その声に応える一助として医薬品の製造設備の錠剤機への依存度も高くなりそれらに伴い四代目社長 島田理史の厳しい経営姿勢はその先を見ている。