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月刊JGAニュース

義民「宗吾さん(そうごさん)」  

 私事であるが、毎年冬のこの時期には、友人といくつかのマラソン大会に出かけている。
平日は都内に通い朝から晩まで仕事に追われる日々なので、大会に出かけ、冷たく澄んだ冬の空気の中、冬の匂いを感じながら体を動かすのは実に清々しい。
 私が毎年参加している大会の中に、千葉県成田市にある東勝寺というお寺をスタートとしゴールとする大会がある。東勝寺は、上野と成田空港を結ぶ京成本線の宗吾参道駅から約 15 分のところにある。最寄り駅が宗吾参道駅と名付けられているように、東勝寺は「宗吾さん」と親しまれ信仰を集めている。東勝寺に祀られているその「宗吾さん」とは、江戸時代の義民である。
 言い伝えによると、今から 350 年前の 4 代将軍家綱の時代、下総国(今の千葉県)印旛郡公津村の領民たちは、藩の苛政に苦しんでいた。折からの飢饉にも関わらず年貢の取り立ては厳しくなる一方で、先祖伝来の田畑を手放す者が続出し、一家離散や餓死が日常のこととなっていた。これに耐えかねた村人たちは、もはやこれまでと一揆を起こそうとしたが、村の名主であった惣五郎(宗吾さん)は村人たちを押しとどめ、代わって窮状を藩に訴えたが聞き入れられず、直訴は天下のご法度で死罪は免れないことを承
知で、「このうえは、上様(将軍)に直訴を決めてはいかがか。十万石の名主百姓の総代として、われ一人命を捨てるより他なかるべし」と将軍への直訴を決断。上野寛永寺での参詣を終えて帰る途中の将軍家綱に走り寄り、訴状を差し出す。幸い訴えは取り上げられ、領民の年貢は減免されたが、惣五郎(宗吾さん)夫婦は磔刑(はりつけ)に処せられ、4 人の子供たちも打ち首とされたとのこと。
 この惣五郎(宗吾さん)の義民伝説は、江戸時代後期には広く知られ、明治以降は日本における民権運動の始まりとしても知られている。
 毎年、冬の時期、この大会に参加する度に「宗吾さん」は私に「義」の大切さを私に思い出させてくれる。私の主な仕事は業界活動である。今年も薬価制度改革議論が始まる。そもそもとして、「義」のない活動や訴えはステークホルダや国民に受け入れられるものではない。そのことを忘れず臨みたいと思う。

(YK)

 

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