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特別寄稿

ジェネリック医薬品事始め

ジェネリック医薬品事始め
国際医療福祉大学大学院教授
(日本ジェネリック医薬品・バイオシミラー学会代表理事)
武藤 正樹
 私がジェネリック医薬品に関心を持ったのは、今から 20 年も前の 1998 年、旧国立長野病院(現、国立病院機構信州上田医療センター)にいた時のことだ。この年の前年、アジア通貨危機が東南アジアを襲った。この時、私は国際協力機構(JICA)の依頼を受けて、この通貨危機がアジアの医薬品流通に与えた影響調査するため、インドネシアに出かけた。  アジア通貨危機は、まず 1997 年 7 月のタイ通貨バーツの大暴落から始まった。この通貨大暴落は周辺国に一挙に広がった。インドネシアもその例外ではなく、インドネシア通貨のルピアが大暴落した。このためお財布にルピア紙幣がパンパンに溢れていても、何も買えないという事態になった。  この調査旅行で、私はインドネシア政府のジェネリック医薬品への力の入れように目を見張った。当時、インドネシア政府は半官半民のジェネリック医薬品を製造する公社3社と流通公社を1社持ち、2億人の人口を抱える広大なインドネシア全土にジェネリック医薬品普及を強力に推し進めていた。このためルピア大暴落の中、海外からの医薬品輸入に支障を来した中でも、なんとか国内のジェネリック医薬品で医薬品流通を維持し、国民の健康を守ったというわけだ。これを見て初めてジェネリック医薬品の底力を実感した。  こうして日本に帰ってきた私だったが、日本では当時、まだまだジェネリック医薬品に対する評価は低かった。そもそも日本でのジェネリック医薬品の歴史を振り返ると、それは 1960 年代半ば頃にさかのぼる。そのころ日本で最初のジェネリック医薬品であるブスコパンの後発品が世に出る。ブスコパンの後発品であるブチルパンが当時の北陸製薬から、スコルパンが関東医師製薬から、ブスポンが三田製薬から製造販売されたという記録が残っている。また当時は特許が製法特許のみだったこともあり、新薬の製法特許が切れると他の新薬メーカーも競って後発品を製造販売した。たとえばプレドニゾロンの製法特許が切れると、各新薬メーカーも競って後発品を製造販売した。新薬メーカー、ジェネリックメーカーによるジェネリック医薬品製造競争が始まる。その後、ノイチームが 60 社から、イノシトールが20 社からゾロゾロと製造販売される。いわゆる「ゾロ品」の時代が到来する。  私がインドネシアから日本に帰ってきた 1998 年ごろになると、こうしたゾロ品時代の風向きも変わる。理由はジェネリック医薬品に対する承認試験のハードルが上がったことだ。それまでの動物試験による承認からヒト試験に変わり、そして溶出試験が義務化され、それ以前に市場に出ていたジェネリック医薬品の再評価も始まり、ジェネリック医薬品が選別されオレンジブックに掲載されるようになる。そして国もジェネリック医薬品の普及策を 2000 年過ぎから本格化させる。  当時、旧国立長野病院にいた私も早速、病院内の医薬品をジェネリック医薬品に切り替えた。当時、注射剤のジェネリック医薬品への切り替えを最初に進めたが、院内の抵抗は大きかった。あるとき造影剤をジェネリック医薬品に切り替えようとしたら、放射線医が「アナフィラキシーショックでも起こしたらどうするんだ!責任とれるのか?」と迫られた。この時はドキドキしながら切り替えたが何も起こらなかった。こうした経験からこのころ現在の日本ジェネリック医薬品・バイオシミラー学会の前身であるジェネリック医薬品研究会を事務局の細川修平くんと立ち上げた。以来18年近くの時が流れ、いまやジェネリック医薬品 80%時代が目前だ。時代の移り変わりの速さを実感する。  さてこれからはジェネリック医薬品のポスト 80%時代を見据えた取り組みを日本ジェネリック製薬協会(JGA)と協力しながら進めたい。
JGAニュースNo.130(2019年2月号)

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